チェスが村をつくり、村がチェスを守ってきた――ドイツの「チェス村」の物語
今日は興味深いチェスの文化を持つ村の紹介記事です。
もし、自分の住む町で特定のスポーツが盛んだったら、どのような光景を思い浮かべるでしょうか?
地元チームを応援する人々、クラブのユニフォームを着た子どもたち、週末に開かれる大会、選手が訪問する学校。日本でも、サッカーや野球などを通じて地域を盛り上げようとする活動は珍しくないです。
例えば日本で1996年に発表された「Jリーグ百年構想」には、スポーツを通じて新しい地域活動を生み出すという発想がありました。
しかし、ドイツには、その関係をさらに深く、長い年月をかけて育ててきた村があります。
その村の名前は、シュトレーベック(Ströbeck)。
人口約1,000人の小さな村で、別名を「チェス村」といわれます。
ここでは、チェスは単なる人気スポーツでも、観光客を呼び込むための名物でもないのです。
学校で学び、家庭で楽しみ、祭りで演じ、結婚式にも登場する。
チェスが村の生活そのものに入り込んでいるのです。
学校で覚えたチェスを家に持ち帰る
シュトレーベックでは、1823年から学校でチェスを教えてきました。
驚くことに現在もチェスは小学校の必修科目、通知表にはチェスの成績が記載されるそうです。
この村の特徴は、それだけではありません。
子どもたちは「盤と駒を懸けた競争」と呼ばれる伝統的な大会にも参加します。成績優秀者にはチェス盤や駒が贈られ、そうした賞品は大人になっても記念品として大切に保存されてきたとのこと。
単なる賞状ではなく、チェスを遊ぶための道具そのものが贈られる。
子どもが学校で覚えた遊びを家に持ち帰り、家族と楽しむこともできる。
そして、成長して学校を卒業してもチェスとの関係が終わるわけではなかったのです。
1883年に設立された地元のチェスクラブは、学校を卒業した若者たちが引き続きチェスを学び、対局できる場所を提供することを、設立当初から目的の一つにしていました。
学校とクラブがそれぞれ別の活動をするだけでなく、一つの文化を次の段階へつなぐ役割を果たしてきたのです。
村の行事にもチェスが登場する
村のチェスは学校やクラブの中だけに収まりません。
毎年の祭りでは、住民たちがチェスの駒を模した衣装を着て大きな盤の上で人間チェスを演じる等です。
村では親子や親族がペアになって参加するファミリーチェス大会も開催されています。
この大会について学校は興味深い説明をしています。親がどれほどチェスに強いかは二の次であり、大切なのは家族で参加して楽しむことだというのです。
大会は単に優秀な選手を決める場ではなく、家族が一緒にチェスを楽しむ機会として考えられているのですね。
さらに、結婚式には花婿が村長とチェスで勝負するという伝統まであるようです。
勝てば無条件で花嫁を得て祝福され、負ければ罰金を支払って祝福されるという古い習慣を現代では象徴的な婚礼行事として復活させたものだそうです。
ここまで来るとチェスが強い人だけの世界ではないと言えそうですね。
チェスが得意な人は選手として、子どもは学校で、家族は大会で、住民は祭りの演者や運営者として関わることができます。
チェスは勝敗を争う競技であると同時に、人々が集まる理由にもなっているのです。
チェスをしなくてもチェス村の住民
日本の地域密着型スポーツクラブにも、似たような仕組みがあります。
例えばJリーグは、クラブを中心に市民、行政、企業が協力するホームタウン構想を掲げ、学校訪問や地域活動を通じてスポーツを地域文化として根付かせようとしてきたのです。
シュトレーベックも競技を通じて地域のつながりを育んでいる点ではよく似ていると言えます。
しかしシュトレーベックの場合、他とは違ってその中心にあるのは特定のプロチームではなくチェスという遊びそのものだと言います。
ドイツUNESCO委員会によると、シュトレーベックでは大会の優勝者が自宅をチェスのシンボルで飾る習慣があり、チェスを指さない住民もさまざまな形でこの伝統に触れているというのです。
新しく村に移り住んだ人にも、チェス文化に参加する機会がある。
この点は、チェスが村の文化になっていることをよく表しています。
特定の競技に詳しくなくても地元のお祭りに参加したり、伝統を知っていたりすることで、その地域の一員であると感じられる。
シュトレーベックにとって、チェスはそのような共通の文化になっているのかもしれないですね。
200年続いたからこそ苦境もあった
しかし、こうした伝統が自然に続いてきたわけではないと言います。
2000年代には少子化によって村の中等学校が閉鎖される問題が起きたのです。
その際、住民だけでなくドイツ国内のチェス関係者も学校の存続を訴えたのですが、中等学校の閉鎖は防げませんでした。
それでも、小学校でのチェス教育は継続され、現在も学校やクラブ、住民たちによって伝統が受け継がれています。
2016年には、この村のチェス文化がドイツ国内の無形文化遺産目録に登録されました。
2023年には学校チェス200周年が祝われ、2026年にも子どもたちがチェス盤と駒を競う大会が開催されています。
チェスという遊びが村の歴史を形づくってきた一方で、その遊びが途絶えないように村の人々も努力してきました。
村がチェスを守り、チェスもまた、村の個性をつくり続けてきたのです。
村おこしに何か新しいものを導入することはできる。しかし、それが何世代にもわたって地域の文化として残るかは、また別の話であろうことは想像できます。
シュトレーベックの魅力は、千年以上前にチェスが伝わったとされる伝説だけにあるのではありません。
子どもが学び、家族が楽しみ、住民が集い、次の世代へ伝えようとする。その営みを何度も繰り返してきたことにあります。
この村は、チェスというゲームが地域の文化になるとはどういうことなのか、その一つの答えを見せてくれているのではないでしょうか。
参考
・ドイツUNESCO委員会「シュトレーベックのチェス伝統」
・Dr. Emanuel Lasker小学校「私たちのチェス伝統」
・シュトレーベック・チェスクラブ「クラブの歴史」

