大事な試験で難しい問題を考えているとき。誰かに言いにくいことを伝えようとするとき。あるいは、勝負の行方を左右する決断をするとき。

私たちは、こうした場面で「頭を使っている」と言い回します。
しかし、考えているのは本当に頭だけなのでしょうか。

緊張すると心臓がドキドキするのは、多くの人が経験していることでしょう。昔の人はそのことから心と心臓は直結した関係にあると考えました。

では、単に緊張しているかどうかだけでなく今まさに計画を立てているのか、複雑な問題を解こうとしているのか、あるいは間違った判断をしようとしているのかといったことまで心臓の動きに表れるのでしょうか?

この疑問に、チェスを使って考えた研究があります。

なぜチェスで「心の動き」を調べるのか

2012年、アルゼンチンのブエノスアイレス大学の研究者らは、チェスの対局中の心拍を調べた論文を発表しました。

チェスは盤上のゲームです。プレイヤーは交互に駒を動かし相手の王を追い詰めるチェックメイト(詰ます)ことを目指します。

対局中には、いくつもの種類の思考が入り混じります。

相手の狙いを予測する。次の数手を頭の中でシミュレーションする。大局的な方針を決める。時間に追われながら、最後の一手を選ぶ。
研究者にとってチェスが便利なのは、こうした複雑な判断を繰り返し観察できるうえに、後からコンピュータで指し手の良し悪しを評価できることです。

単純な計算問題でも心拍の変化は調べられますが、チェスならもっと複雑で、実際の生活にも似た意思決定を観察できるわけです。

熟練者9人の心臓を観察

実験に参加したのは、国際レーティングが2021~2216のチェス熟練者9人です。この数値は、チェスマスターより弱いものの一般プレイヤーとしては都市の地域大会で優勝候補レベルです。

彼らに1人15分の持ち時間でチェスを指してもらい、合計25局、2,086手のデータを集めました。

研究者は参加者の胸に電極を取り付け、心電図を記録したのです。

さらに、対局後には本人に「どの場面で新しい計画を考えたか」「どの場面で具体的な手順を深く読んだか」を尋ねて意図のデータ収集をしました。

これにより、コンピュータが判断した指し手の良し悪しと、プレイヤーが実際に何を考えていたと報告したか、その両方を心拍と比較できるようにしたのです。

対局が進むほど心拍数は上昇

まず研究者らが確認したのは、対局中の心拍数が全体として上昇していく傾向でした。
対局開始から時間が経ち、持ち時間が減っていくほど心拍数は高くなりました。

これは感覚的にも納得できる結果ではないでしょうか?時間がなくなれば焦るでしょうし、勝負の行方が決まりそうになれば緊張することもあるでしょう。

ただし、この実験では持ち時間、局面の進行、有利不利などの条件が互いに関係していたため、何が心拍上昇の主な原因なのかを完全に切り分けることはできませんでした。

そこで研究者らは、もっと短い時間に注目しました。

一手を指す直前から直後までの、わずか10秒間です。

「どう考えたか」は心拍に関わる?

研究者らは、本人が対局後に報告した思考と、実際の心拍の変化を比較しました。
すると、興味深い違いが現れました。

新しい作戦や方針を立てたと報告した手では、着手のおよそ1.5秒前から心拍が高くなる傾向が見られました。
また、具体的な候補手を何手も先まで読み進めたと報告した手では、着手の約2.5秒前から0.5秒前にかけて、心拍が高くなる傾向が確認されました。

もちろん、心拍が上がるだけで「今は作戦を考えている」と分かるわけではありません。
しかし、何を考えていたかを後から本人に尋ね、その回答と心臓の動きを照らし合わせると、一定の関係が見えてきたのです。

頭の中で起きていることが、心臓にも小さな痕跡を残しているのかもしれませんね。

良い判断の前には心拍が下がる?

さらに意外な結果もありました。

研究ではプレイヤーが大きなミスをした手と、似たような条件でも大きなミスを避けられた手を比較しています。
すると、大きなミスを避けた手では、着手のおよそ1~2.5秒前に心拍が一時的に低下する傾向が見られました。

難しい局面で良い判断をするときほど、心臓が速く動くとは限らないようです。

研究者らは、行動直前の心拍低下が、行動の準備や余計な行動の抑制などと関係している可能性にも言及しています。
ただし、ここで観察されたのは、あくまで平均的な心拍の違いです。

「心拍が下がれば正しい手が指せる」という意味ではありませんし、特定の心拍パターンが現れたら必ず良い手になる、ということでもありません。

では、心拍だけで考えていることを当てられる?

研究者らは、心拍データを使って実際に思考や出来事を判別することにも挑戦しました。

その結果、計画を立てたかどうか、深く計算したかどうか、相手が大きなミスをしたかどうかといった分類には、ある程度の手がかりがあることが分かりました。
特に、深く計算したかどうかについては、実験内の分類で約78%の正解率が得られました。

ただし、その分析に用いられた該当手は17手と少なく、ほかの条件では正解率が50~60%程度のものもありました。

自分が大きなミスをしたかどうかについては、約55%。二択をほぼ偶然に近い精度で当てる程度の結果です。

つまり、心拍によって思考の一部を推測できる可能性は示されたものの、心臓の動きだけで頭の中が読めるようになったわけではありません。

別の研究でも難しい問題と心臓の関係がある

このような研究は、2012年だけのものではありません。

2019年には、16人のチェスプレイヤーに難易度の異なる問題を解いてもらい、心拍変動を調べた研究が発表されています。
ここで調べた「心拍変動(HRV)」とは、単純な心拍数とは異なり、心臓の拍動と拍動の間隔がどれくらい変動するかという指標です。

この研究では、問題が難しくなるにつれて心拍変動が小さくなる傾向が観察されました。

また、問題の成績が良かったグループでは、成績が低かったグループより心拍変動が大きい傾向も確認されています。

研究対象は少人数で、年齢などの違いもあるため、この結果だけで優れた思考能力と心拍変動の関係が確定したわけではありません。
それでも、何を考えているか、どれほど難しい問題に取り組んでいるかと、身体の状態が関係していることを示す興味深い結果です。

心臓は思考の結果を映しているのか、それとも思考を助けているのか

ここで、もう一つの疑問が生まれます。

考えることで心拍が変わったのでしょうか。それとも、心拍を含む身体の変化が、考えることそのものを助けているのでしょうか。
これは心理学や神経科学で長く議論されてきた問題です。

例えば、「ソマティック・マーカー仮説」という考え方があります。

私たちが何かを決断するとき、過去の経験に結びついた身体反応が、選択肢の良し悪しを判断する手がかりになるのではないか、という仮説です。
理屈ではうまく説明できないものの「なんとなくこちらは危険な気がする」と感じる、いわゆる直感とも関係する考え方です。

しかし、この仮説には異論もあり2012年のチェス研究も、心拍が判断を改善させたことを証明したものではありません。
現時点で言えるのは、考えることと身体の状態は、私たちが普段想像するよりも密接に結びついている可能性があるということです。

考えるのは、頭だけではない

私たちは日常生活で冷静に考えることと、感情に流されることを対立するものとして扱いがちです。

しかし難しい問題を解いている最中も、決断しようとしている瞬間も、心臓は動き続けています。そして、その動きは考えている内容や状況によって少しずつ変わるようです。

大事な試験で迷ったとき。仕事で重大な判断をするとき。将来について考えるとき。等

そんな場面で、心臓は単に血液を送り出しているだけではなく、脳とともにさまざまな身体反応の一部を担っているのかもしれません。

チェスの対局中に観察された、わずか数秒間の心拍の揺れ。
それはまだ、私たちの思考を読み解くための確実な暗号ではありません。

それでも、頭の中だけで完結しているように見える「考える」という行為が、実は身体全体で起きている出来事なのかもしれないと想像させてくれる研究でしたね。

参考

・『告げ口する心臓』:チェスの対局中の心拍数の変動は客観的および主観的な出来事を示す指標となる

・チェスの問題に取り組む際の心拍変動における高パフォーマンスのチェスプレイヤーと低パフォーマンスのチェスプレイヤーの違い

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くろーりん
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