スポーツの世界チャンピオンは誰が決めるものだろうか?

現在なら競技団体が定めた予選を勝ち抜き、決勝戦などで優勝した選手が世界王者になるのが一般的に思えます。ですが、かつてのチェス界では事情が大きく異なっていました。

現在の国際チェス連盟の認める公式世界選手権は制限時間(持ち時間)制が始まったとされる1886年にさかのぼります。しかし当初、世界王者への挑戦は王者本人との交渉によって実現するものだったのです。

挑戦者は資金を集め、王者との間で開催場所や条件を取り決める必要がありました。王者には対戦相手や試合条件に対して大きな発言力があり、どれほど強い選手でも交渉が成立しなければ世界王者に挑戦できなかったとのこと。

いわば世界一という称号が王者個人の持ち物に近かく、個人所有と言うような事も言われました。

もちろん、これは単なる横暴ではありません。大規模な大会の開催には資金が必要で、王者自身も世界タイトルを賭けて戦う当事者です。しかし、王者が挑戦を受けなければ実力ある選手が世界一になる機会を得られないという問題もありました。

1924年には国際チェス連盟(FIDE)が設立されたものの、世界王座を実効的に管理する権限は十分に持っていませんでした。
今日はそのあたりの制度がどう現在のものに変わっていったのかをお話していきます。

そんな状況が大きく動いたのは1946年のことです。

チャンピオンが亡くなったら次の王者は誰?

1946年3月24日、当時の世界王者アレクサンドル・アレヒンが世界一の王座を保持したまま亡くなりました。
世界選手権の歴史上、それまで王座は現王者を試合で破った者に引き継がれてきました。しかし今回は、誰も王者を倒せないことになります。

しかも、後継者を自動的に決める制度も当時考えられていませんでした。
チェス界は、世界王者を決める方法そのものを考える必要が出てきたのです。

実は、アレヒンの死去以前から制度改革の動きはありました。ソ連の有力選手ミハイル・ボトヴィニクとの世界選手権マッチが計画され、イギリスのチェス連盟も開催に向けて動いていたとされます。

その際、将来の世界選手権について国際組織の裁定に従うことを選手に求める構想もあったと言います。
つまり、王者の死によって突然改革思想が生まれたわけではありません。以前から存在した問題が王者の不在によって先送りできなくなったと言えます。

王座を誰が決めるのか意見が割れた

当時のチェス界では、次の世界王者の決め方についてさまざまな意見が出されました。

例えば、前世界王者マックス・エイベに称号を戻すという案がありました。エイベは1935年にアレヒンを破り、1937年に再び敗れた人物です。存命の元世界王者として王座を引き継ぐ資格があるという考え方ですね。

一方、アレヒンが生前に挑戦を受け入れていたボトヴィニクを重視する意見もありました。また、世界の有力選手を集めて大会を開催して新王者を決めるべきだという意見もありました。

いずれも一定の理由があるように思います。
ところが、ここには別の問題もありました。

そもそも、その決め方を決定する権限を誰が持っているの?

国際チェス連盟FIDEは国際組織として存在していたが、それまで世界王座を管理してきたわけではないです。しかも第二次世界大戦で活動が停滞、組織の立て直し自体が必要な状況だったとされます。

世界一の決め方を改革するには、まず新しい決め方を関係者に認めてもらわなければならないという問題の解決が必要だったのです。

改革を進めようにも、まとまらない

1946年7月、スイスで第二次世界大戦後初の国際チェス連盟総会が開かれました。

戦争直後で各国の移動や財政には困難があり、参加国は限られていたそうです。強豪国であるソ連も、この時点ではまだ国際チェス連盟に加盟していませんでした。

総会では、有力選手による特別な世界選手権大会を開催する方針が打ち出され、将来の挑戦者を予選で選ぶ制度も構想されたのです。

しかし、話は簡単には進まなかった。

例えば、アメリカ側では、自国の代表選手を国際チェス連盟が指名することに異議が出ました。誰がアメリカ代表にふさわしいのかは、国内の大会成績を踏まえてアメリカ側が決めるべきだという主張です。

開催地や日程も問題になりました。ソ連側との調整にも困難があり、当初1947年に予定されていた世界選手権は実現しませんでした。
王者個人が決定権を握っていた仕組みを改めようとすると、今度は国際連盟と各国連盟、選手の間で、誰が何を決めるべきかという争いが生まれたのです。

元王者を復帰させる案の登場

1947年、オランダで開かれた国際チェス連盟総会でも議論は続きました。

ここでは、前述で少し触れたように元王者オランダ人のマックス・エイベをまず世界王者とし、他の有力選手と戦って最終決定とする案が浮上しました。

実はこの会議について、エイベが「一日だけ世界王者に戻った」という逸話が残されていますが、議事録によると正式決定される前に頓挫したので正確には「戻りそうだった」とするのがよさそうです。

翌日、ソ連の代表団が到着すると最終的に6人の有力選手による大会を開催する方針で合意したとされます。

この経緯は、改革の難しさをよく示しているように思います。
形式上は会議で決定する事ができたとしても、その決定を重要な関係者が認めなければ、新しい世界王者の正統性が疑われかねない難しさ。

世界王者を決める制度には、単にルールを作ること以上の難しさがあったと言えます。

1948年ようやく新世界王者誕生

そして1948年、ついに新制度による世界選手権が実現しました。

当初予定されていた6人のうちアメリカのルーベン・ファインが辞退したため、参加者は5人となりました。

大会はオランダのハーグとソ連のモスクワで開催され、各選手が他の4人と5回ずつ対戦する長期戦となりました。

優勝したのは亡くなった王者アレヒンと生前に世界一を争う予定だったボトヴィニクだった。
20局で14点(勝利+1点、引き分け+0.5点、敗北+0点)を獲得し、2位に3点差をつけて世界王者となったのです。

1948年、大会の審判団は最終議定書を作成した。そこには大会の結果が記録され、ボトヴィニクが世界王者となったことが正式に宣言されています。
この出来事の意味は、ボトヴィニクが最強だったことだけではありません。

それまでの世界王者は、前の王者を直接倒すことで称号を引き継いできました。しかし、ボトヴィニクは王者不在の状況で、国際組織が定めた大会に優勝して世界王者になったのです。

そして、これは国際チェス連盟が実施した最初の世界選手権だったとも言えます。

世界一は王者が決めるものではなくなった

その後、地域予選や国際予選、挑戦者決定大会を経て世界王者に挑む仕組みが調整、整備されて行きました。

1951年にはこの制度によって挑戦権を獲得したデヴィッド・ブロンシュタインが、ボトヴィニクと世界選手権を戦っています。
こうしてチェスの世界王座は、現王者との個人的な交渉から国際連盟が定めた道筋によって挑戦権を獲得する仕組みへと変わっていきました。

もちろん、新しい制度が完全に公平だったというわけではないです。実際に改革の過程では出場選手の選考をめぐって対立があり、政治や国家間の利害も無視できませんでした。

しかし、大きな変化があったことは確かです。

世界王者本人が次の挑戦者を選ぶ仕組みでは、王者が亡くなる等の突発的な大事で制度そのものが行き詰まってしまいます。
一方、組織が世界王座を管理すれば、誰が王者になっても同じ枠組みの中で次の挑戦者を決められます。

1948年の世界選手権は、一人の名選手の誕生だけでなく世界王座が個人を超えて続いていく仕組みを作った出来事でもありました。

興味深いのは、チェス界が理想的な制度を掲げて一気に改革したわけではないことでしょうね。

改革の必要性は以前から認識されていました。しかし、王者の突然の死によって従来の仕組みが行き詰まり、各国や選手の利害を調整しながら約2年をかけて新たな答えを見つけたのです。

長年続いてきた慣習は、それが機能している間は簡単には変わりません。ところが、何かをきっかけに従来の方法が使えなくなると、それまで当たり前だった仕組みそのものを問い直す必要が生まれてきます。

1948年のチェス界で起きたことは、世界王者を決める話であると同時に組織や社会が制度を作り直す過程を示す歴史でもあるのではないでしょうか?

参考:FIDE History等

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くろーりん
チェスブロガー、くろーりん。 チェスのルールを知らなくても楽しい。 ルールを知ってるともっと楽しいブログを目指します。 チェス情報発信歴十数年くらい。 チェスの強さはいまいちなので、雑学やTIPSなど「チェスって面白い」と思っていただけるブログ制作を心がけます。 (当ブログはリンクフリーです) チェスにまつわる研究や出来事の紹介関連はブログで。チェス界隈のしがらみや議論があった出来事など考えさせられる系はnoteで配信中。Vtuberとしてyoutubeでも活動中。 note:https://note.com/chlorine555